忠臣蔵

観光コース

忠臣蔵は日本人の特徴の1つである強い忠義心が現れた江戸時代の大事件であり、歌舞伎や映画で盛んに公演、報道されています。中央区及び近郊には、赤穂藩浅野家の江戸上屋敷や本所吉良邸など、この事件に関係するスポットが多く点在しており、サイクリングツアーで立ち寄ります。

事件の概要

1701年、赤穂藩主(兵庫県)浅野内匠頭(35才)は勅使の接待役に推されたが、指南役の吉良義央を江戸城内の松の廊下で切りつけた為、切腹を命じられた。その後、江戸屋敷は取り上げられ、赤穂藩浅野家は断絶した。
 頭家老・大石内蔵助ら旧赤穂藩士は、この不条理な裁定に不満を抱き仇討ちを計画した。赤穂浪士47名は1年10カ月の困窮する生活の中、機会を伺い1702年12月14日、本所吉良邸に討入し、吉良上野介を打ち取った。
 浪士たちは吉良の首を主君の眠る泉岳寺へ供え、翌年、幕府の命により切腹した。

堀部安兵衛之碑

堀部安兵衛は新発田藩(新潟県)の出身で、浪人だった父が死去すると、江戸に出て剣術修行に励み、堀内道場の四天王とうたわれた。1694年、高田馬場で果し合いをする菅野六郎左衛門の助太刀として駆けつけ、数人を切り伏せた。これを知った堀部弥兵衛が養子縁組をし、吉良邸の討入りに参加した。

築地本願寺_間新六供養塔

仇討ちの義盟に父と兄が加わっている事を知った新六は堀部安兵衛を通じて大石内蔵助に義盟への参加を請い加わった。吉良邸討入では裏門隊に所属。本懐を遂げて本所松坂町の吉良邸より高輪泉岳寺へ引き揚げる途中、携えた槍に金子を結び付け、自身の追悼を願う書状と共に、築地本願寺の塀の中へ投げ入れた。享年24歳であり、本願寺境内には間新六供養塔がある。

本所吉良屋敷

 前日までの雪は止み、月は皓々と辺りを照らしていた。
 赤穂浪士たちは表門と裏門から同時に攻入りそして3人一組で吉良上野介を探しました。夜明け前になってやっと、物置に隠れ潜んでいた吉良上野介を引きずり出し、敵討ちは成功した。
 右写真は打ち取った吉良上野介の首を洗ったと言われる首洗いの井戸です。

Kira state in honjyo

高輪泉岳寺

赤穂浪士は討入後、本所吉良邸を出発し、幕府没収された浅野家江戸上屋敷、築地本願寺脇を通って、高輪泉岳寺に到着した。右下動画の高輪泉岳寺の墓には大石内蔵助はじめ47士が切腹した後、埋葬されている。

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